大阪社保協FAX通信 第1080号 2014.11.10
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沢内村の精神は今も脈々と受け継がれている〜いま再び「生命行政」を取り戻す活動が「憲法」を活かす運動です。
9月末、岩手県花巻温泉で開催された「中央社会保障学校」の二日目のフィールドワークで、旧沢内村(現西和賀町)を訪問してきました。
ここで学んだことをみなさんにもお伝えしたいと思います。
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岩手県旧沢内村(現在、西和賀町)とはこんなところです
花巻温泉からバスで1時間半。山の奥深いところに旧沢内村はありました。沢内村は日本ではじめて老人医療と乳児医療を無料化した自治体だということはみなさんご存知のことと思います。
★半年雪に埋もれる豪雪地帯
沢内村は11月頃から雪が降り始め、6月でも根雪が残るくらい、雪深いところであるため、昭和30年代初頭まで無医村で、医者に会えるのは死亡診断書をもらいに行く時ぐらいでした。
昭和32年、村長になった深澤晟夫氏がまずやったことは、ブルドーザーで雪の中に道を作ったこと。そして、保健婦を置き「予防医療」による健康管理体制を作ったこと。35年には「乳児医療費」「老人医療費」の無料化を行い「財布の中」の心配なく医療にかかれる制度を作り、さらに38年には国保法改正をまたずに、本人3割負担を先行実施しました。そしてついに37年、乳児死亡ゼロを達成したのです。
以下は昭和39年5月に保健文化賞を受けた深澤村長の寄稿文です。村のことや村長の政治理念がとてもよくわかる文章ですので、全文掲載します。
【保健と私の政治理念】
私の村は奥羽山系のふところ深く秋田県境に位している岩手県西南部の寒村である。人口は6500人に過ぎないが、300平方キロ近くの広大な面積(殆どは国有林)を占めている。地形は帯状で、南北28キロに及ぶ県道に沿うて7割の住民が住み、その両側の奥に点在する14部落に3割の住民が住んでいる。
私の村の特徴は次の通りである。第一は極めて貧乏であること。日本一貧乏な岩手県の中で最下位に属し、昭和32年頃は一戸平均23万円の年所得であった(9割迄は米単作を主とする農家)。第二は極めて不健康であること。例えば乳児の死亡率は日本一高い岩手県の中で最高位に属し、昭和32年頃でさえ概ね70%(1000分の1)を示している。第3は極めて雪の深いこと。2メートルから3メートルの豪雪のため交通はマヒ状態に陥り、半年間は雪の牢獄生活を覚悟しなければならない。岩手県一の豪雪地帯だから、日本有数のランクに入るだろう。
こうした環境の中で、郵便の配達も止まってしまう猛吹雪を恨みながら、石コロのように死んでいった病人をあまりにも沢山私は知っている。口に糊することもできない人達が、薬草と売薬を信じ、近代社会や近代医療を嘲りながら死んでいった例を知り過ぎる程私は知っている。
生命の尊重されない政治や世相の縮図のように、私の村ほど露骨にこれを表したものも少なかろう。人命の格差は絶対に許せない。生命の商品化は断じて許せないと考えることに無理があろうか。このことは感傷的なヒューマニズムでもないし、人権尊重という民主主義の題目唱和でもない。それは人道主義とか憲法とかの生ぬるい理念の問題でなくて、もっと切実な生々しい生命自身、人間自体の体質的な現実課題であると解するのに何の無理があろう。生命健康に関する限り、国家ないし自治体は格差なく平等に全住民に対し責任を持つべきであり、それは思想以前であり、憲法以前であり、ましてや政策以前の当たり前の責務であるというのが私の政治理念である。
この理念を基にして私は生命をおびやかす三条件、即ち低い意識水準、貧乏、雪の課題解決のため昭和32年村長就任と共にその具体的努力に入った。私の諮問機関として保健委員会を設け、そのメンバーには議会、教育委員会、社会委員会、婦人会、青年会、区長会、PTA、校長会、農協。病院等の指導者を委嘱し、専ら組織活用の方法を用いたり、又部落毎1名計23名の保健連絡員を置いたり、岩手医大学生に頼んで冬季夏季の大々的保健啓蒙の活動を展開したりした。更には保健モデル部落を数ヶ所設定したり、保健婦の養成制度を採用したり、又保健相談や育児指導にも格別な力を払った。
34年頃の3年間は無我夢中の啓蒙時代であったが、32年現院長加藤博士(東北大学中村内科の鬼才)を迎えてから反省期に入り、科学的な体系的な健康管理の方向を辿って今日に至っている。個人別、家族別、部落別の特徴を捉えた村全体の健康台帳の整備に力を入れている現状である。生命行政は予防活動から、予防活動は健康管理から、健康管理は健康台帳から、の標語のできたのもこの頃である。又この頃から東北大(附属病院長中村教授外)、岩手医大(若生教授外)、秋田県平鹿総合病院(立身院長外)、北上保健所(及川所長外)等の指導協力が癒々深まっている。
こした学識経験者をお招きしての健康管理研究会の生まれたのも当然である。全住民の10割給付を公約して、その第一段階として老幼(60歳以上、及び1歳未満)の10割給付を実施したのも35年である。その後、入所命令をうけない長期結核療養者や伝染病患者に対する10割給付を行い、又38年には法施行を待たずに世帯主7割給付を4月から実施している。
以上の経緯の中で35年には乳児死亡率低下(25%)による知事表彰及び岩手日報賞を受け、偶然ではあるが37年には乳幼児死亡ゼロの奇跡に恵まれたのである。雪の問題も5年間の努力が実って、昨年は延々50キロの豪雪を突破して盛岡までの定期バスの確保に成功し、今冬からは離れた小部落の生命を守るために雪上車を病院に備え付けることになっている。
このようにして暗黒社会にも一条の光が射しかけているとは思うが、あまりにも将来問題が山積みしており、例えば全住民の10割給付の問題、妊婦の健康管理や病類別、特に本村特有の高血圧対策の問題とか、更には水道、住宅等環境整備の案件などを考えると私の頭が重くなる。高い段階の政治解決、いうなれば国の医療制度又は生命行政の抜本的反省を前提とする課題の多いことを思えば暗然とせざるを得ない。
然し、私は自分の政治理念を不動のものと考え、内にあっては村ぐるみでの努力を惜しまず、さらに外からの暖かい理解と協力を信じながら、住民の生命を守るために命を賭けようと思う。
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昭和40年(1965年)1月28日、深澤村長帰らぬ人に。
これほどまでにただひたすらに村民の命、健康第一に考える深澤村長でしたが、自らの健康については省みず、この文書を書いた次の年初め、癌で命を落とすことになりました。
★深澤村長亡きあとも脈々と息づく「生命行政」〜高橋和子さんのお話
9月26日に旧沢内村を訪問しました。
お話を伺った高橋和子さんは沢内村の元保健婦さんで、村会議員も勤められていた方ですが、深澤村長が亡くなってから仕事についておられるので、深澤村長と一緒には仕事をされていません。つまり、沢内村の生命行政、命を守ることを最優先する行政は深澤村長亡きあとも、深澤村長の志を引き継ぐ人々によって脈々と続いてきたのです。
高橋和子さんのお話しで興味深かったのは、地域ぐるみで住宅改良の運動をしたという話でした。沢内村は11月には雪が降り始め、いまでも6月頃まで根雪が残るそうです。昔の家屋は茅葺き屋根で、雪が滑らず積もってしまうため家の回りが完全に雪に埋もれてしまうので、ずっと日に当たらないまま家のかで過ごすので子どもたちの生育も悪くくる病にかかりました。
そこで、部落毎に話し合い、住宅改良に取り組んだそうです。床を高床にして、屋根も茅葺きをやめ、雪が滑り落ちる角度にする。費用は「結(ゆい)」でやったと。
結(ゆい)というのは各地にありますが、労働力や物の助け合い。沢内村でも、お金ではなく食糧や労働力の助け合いで家々の建て替えをすすめていったそうです。不動産を一から建て替えていく訳ですから、いろんな事を乗り越えていかなければならなかったはずです。
沢内村には「三せい運動」というのがあって、「一人一人がせい、話し合ってせい、みんなでせい」と。まさに話し合いと協力で解決をする力を育てていってたのだということです。
深澤村長は人を見つけ出し、育て、組織した人です。ですから、村長がいなくなっても、脈々と生命行政は受け継がれ、生きてきたのです。
★2005年隣町との合併で岐路に〜でも絶対に譲らなかったこと
そんな沢内村が平成の大合併で岐路に立ちます。
隣の湯田町は温泉観光でかつては活況をきたしたこともあるのですが、現在はそれも廃れていました。沢内村は「生命行政」、湯田町は『観光行政』。行政姿勢が全く違う自治体が一緒になるのは困難で、湯田町は「沢内病院なんか無駄だ」と主張しましたが、沢内村は「沢内病院と老人医療無料化は合併の第一条件」と突っぱね、存続を果たしたのです。
現在、町の高齢者医療費はいまでも65歳以上の非課税世帯は無料、課税世帯は月額上限1500円での制度維持をしています。
★現在沢内の高齢者と湯田の高齢者の状態が全く違う
高橋さんによると、旧沢内村の高齢者と旧湯田町の高齢者では健康状態も一人当たり医療費も大きく違い、そして介護保険の利用状況も全く違うそうです。これは、50年にも及ぶ長年の予防医療の賜物でしょう。
10月から沢内病院は町の中心部に移転し「西和賀沢内病院」として新規オープンしました。建物の総建設費は町の1年分の一般会計以上ですが、困難を乗り越えて作られた白くて大変美しい新病院は沢内村の人々の誇りのように見えました。
★政治の基本は人間尊重、生命尊重
昭和36年、二度めの村長選挙のとき、深澤村長は「生命行政」一本で闘いました。その時の演説の一部です。
「今の世の中は、生命さえ商品扱いてあります。生命の商品化は絶対に許されません。人間尊重、生命尊重こそ政治の基本でなければなりません。沢内村野蛮条件の解消こそが、すべての行政に先んじておこなわなければならないのです」
★日本はいつだって生命をないがしろにしてきた国
深澤村長の言葉は今の日本の社会保障削減、生命軽視の今をまさに言い表しているかのようです。つまり、この国はいつだって生命をないがしろにし、本気になって社会保障を翌使用など思ってきた国ではないのです。
その証拠に、年金は「戦費調達」のために作られたし、国民健康保険は「健康で丈夫な農民・兵士」を作るために作られたとういう歴史が物語っています。けれども、その国に抗して住民の命を守ってきたのは、一番近くにある自治体〜市町村だったのです。
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小さな村だから出来たのではない
フィールドワーク参加者の一人が「沢内村は小さな自治体だからそんなことができたのではないのか」という質問をしました。
高橋さんは一言こう仰いました。「私たちのように6000人足らずの小さな村でできたことが、みなさんのところのように大きい自治体でできないとは思えません」と。
すさまじくも厳しい雪に閉ざされた人口6000人足らずの沢内村が、なによりも村民の命を第一にと掲げた「生命行政」を進めてきた歴史と、そしていまなお脈々と受け継がれていることは、これは現代に生きる私たちに勇気を与えてくれます。
沢内村は50年以上前にすでに「地域包括ケア」の考え方を持っていました。しかし、今と大きく違うのは、その計画の中に「健康で文化的な生活」つまり25条を組み入れていることです。
いま、なにが大事なのか。「生命がなによりも大事だという行政」を私たちの手で取り戻すことがいま一番必要ではないでしょうか。
そのためにはどうしたらいいのか。この大阪で、地域でそれを考え実行していくことが、「憲法25条を活かす」ということなのだと思うのです。
沢内村地域包括医療実施計画の目的と目標【1962年(昭和37年)計画策定】 (目的) 1.
幸福追求の原動力である健康を人生のあらゆる時点で理想的に養護する。 2.
生存地域社会環境(自然時環境・社会的環境)の健全性の開発向上を期する。 (目標) 1.
すこやかに生まれる 2.
すこやかに育つ 3.
すこやかに老いる これらの目標を実現するためには 誰でも(どんな貧乏人でも)、どこでも(どんな僻地でも)、いつでも(24時間・365日・生涯にわたって)学術の進歩に即応する最新・最高の包括医療サービスと、文化的な健康生活の保障を享受することが必要である。 (改革目標) 1.
国保沢内病院の体質改善 2. 沢内村自治体の体質改善 3. 村民の自己管理能力の向上 |
(大阪社保協 事務局長 寺内順子)